時代とともに変化したサーキットを辿る「スポーツランドSUGO編」

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2020年6月25日

“魔物が棲む”と言われているスポーツランドSUGOも、鈴鹿や富士などに続く歴史あるサーキット。シンプルなコースレイアウトでオープンするも、改修によって連続コーナーが多いテクニカルなコースに変貌。

 長い歴史の中で大きな変化を遂げてきたサーキットの紹介は今回が最終回。鈴鹿サーキット、富士スピードウェイに続くのは、宮城県のスポーツランドSUGOだ。

 東北にはかつて青森県にむつ湾スピードウェイが存在したものの、地の利に恵まれず、また1972年からわずか2年間の活動だった。SUGOは東北随一の都市、仙台から近いこともあり、東北のモータースポーツを一気に活性化させたサーキットであることは、誰もが認めるところだ。

 オープンは1975年の5月。当初よりロードコースだけでなく、カート、モトクロス、トライアルコースも設けられており、またスポーツ施設も充実した総合スポーツ・レジャーの場という位置づけでもあった。ヤマハのテストコースを兼ねていたこともあり、初めてのレースは同年7月に二輪レースが開催されるも、四輪レースは4年後の1979年4月にようやく開催される。

 二輪レース専用としていなかったことは、最初の段階から最終コーナーにシケインが設けられており、もちろん不通過も可能としていたことからも明らかだ。母体がヤマハということもあって二輪レースならともかく、当時の東北には四輪レースを開催するノウハウがなかったためだと推測される。

 実際、初めての四輪レースを主催したのは関東のクラブだった。カートコース(現在の西コース)でのジムカーナも含め、東北のモータースポーツ人気の向上には1982年に「奥州VICIC」が創立されたことが、大きく貢献しているのは間違いない。

 最初のレイアウトは極めてシンプルだった。コーナーは5つしかなく、1コーナーの先に2コーナー(現在のレインボーコーナー)、バックストレートを経て馬の背コーナー、そして左コーナーに続いたのが最終コーナーだった。80年9月にフォーミュラ・パシフィック(FP)が開催されて、これが初めてのビッグイベント。83年からはノンタイトルではあったが、グランチャンピオン(GC)レースも開催されるようになる。

 余談ながら、1984年にGCレースを取材した経験があるのだが、ラップチャートを記すのが非常にせわしなかった記憶がある。なにせポールタイムが47秒16である。レースペースはもう少し遅かったにせよ、1分も経たぬうちにもう戻ってきてしまうのだから! なお、1983年に1コーナーにもシケインが追加されるが、これもまた二輪レース専用だった。

 1987年にコースが全面改修されたのは前年、同県に西仙台ハイランドレースウェイが設けられたことも少なからず影響していようだ。より安全性を高め、かつ魅力をさらに増そうという。同年に東北自動車道が全線開通となり、またF1が鈴鹿サーキットで開催されるようになって、モータースポーツが活気づいていたことも、好機と判断されたのは間違いない。

 1コーナーから先に、2コーナー、3コーナー、ヘアピン、S字、ハイポイントコーナーを新設し、航空図などで新旧レイアウトを比較してみると、なんとなく地形をうまく利用した感もある。改めて気づいたのだが、バックストレートは若干伸ばされ、馬の背という名称はそのままながら、角度だけでなくエンドが奥に移され、セーフティゾーンも拡大された。

 続く新設されたSPコーナーの内側に見える舗装部分には、旧コースの面影が今でも残されている。上りながら回っていく、高速の最終コーナーは旧コースから、まったく変わりはない。また、併せてパドックも拡張された。

 全体的な変化の印象は、高速部分をそのまま活かしつつ、テクニカルな要素を加えたといったところか。かつては前出の仙台ハイランドが存在し、ふたつの、しかもまったく性格の異なるサーキットが宮城県にあったことで、ワンメイクレースなども数多くの「東北シリーズ」が設けられ、大いに盛り上がりを見せた。一方は2014年を最後に閉鎖されてしまったが、もう一方のSUGOは東北に灯したモータースポーツの火を、今も煌々と燃やし続けている。

ホームストレートとバックストレートを基調としながらコーナーが新設され、一瞬たりともミスが許されない緊張感漂うコースへと生まれ変わった。
激しいアップダウンに連続コーナー、そして狭いコース幅も手伝って、アクシデントが起こりやすいのがスポーツランドSUGOの特徴だ。

イラスト/高梨真樹 レポート/はた☆なおゆき、JAFスポーツ編集部

※参考文献:「スポーツランドSUGOホームページ『40周年』」、「モータースポーツ百科」(グランプリ出版)

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